自分の感情で、踊ることの技術。自分が踊る理由。最近の表現者としてのプロ活動

最近は、アイドルのレッスン、生きるプロを目の前にしたパフォーマンスなど行った。

某アイドルのレッスン。

かれこれ1年半ほど、個人レッスンをしている。もちろん、はじめはダンス初心者だ。

たとえばステップの踏み方から始まり、リズムの強弱を使った音楽表現など教えてきたつもりだ。

今回、初めて、本人から「楽しかった」という言葉が聞けた。

ダンスに苦手意識がある生徒から聞けた言葉だから、私も嬉しかったし、手応えがあった。

結論から言うと、

普段や日常的に感じている”感情”を踊ってきたダンス・振付に乗せて踊ったのだ。

その応えに「難しかった」と言う言葉と共に、「楽しかった」と言葉をもらった。

「難しかった」と言うのは、自分の気持ちを表現者として、身体表現ダンス表現をどうやったらいいか、うまく伝わっているのかと言うことだろう。ダンスは自分が踊っていて客観的には、瞬間瞬間見れないので、客観性に欠けるから難しい。これは、動画を撮って自分が満足するまで確認するのが一番いい方法だろう。

そもそも、この感情表現は、うまく伝わる画期的な技術みたいなものはあるのだろうか。その感情をもがきながら身体で表現しようとしている様こそが、まさに感情表現でその”人間らしさ、その人らしさ”が人の心を打つし、自分もまさに”楽しい”のだと私は考える。

具体的にどのように行ったか。前半では、ピンポイントでの振り付けに含まれるポーズをより意識的にやる部分を事細かに伝えていった。

その上で、まず、前提として、自分は音楽に流れるイメージや感情、ジャンルなどを無責任に感じることが得意だ。体験者にも、音楽にどのようなイメージを持つか聞いてみた。

”笑顔”、”草原”というイメージだったようだ。草原というイメージには遠い音楽だったので本人の意見を尊重したが、私の経験では、この音楽はロック、反骨精神があるように感じた。また、振り付けにも、ラリって踊った方が良さそうな振り付けが入っている。それを掛け合わせると、若い女の子が社会の風潮に合わせてあげているという上から目線で大人と対応していくみたいなストーリーが良いのではないかと思った。

そのようなことを伝えると、”姫ギャル”のイメージを本人はお願いされたと言っていた。

それならば、と思い、”普段、イライラしていることとか、社会や親とか、大人とかに対して思っていることはあるか”と聞いた。返事は、イエスであった。

では、その気持ちを持ったまま踊ってみてと伝えた。

すると、変化が見えた。具体的には、前半に教えた瞬間のポーズのような見せ所が表情を伴ってしっかり見えてくる。また自信を持って踊っているように見えた。

振り付けは何も変わっていないけど、自分の感情で踊ることの大切さを改めて学んだ。

今回のレッスンは、そんな個人的に手応えのあるレッスンだった。

これがあるのが、教え続ける醍醐味なのかもしれないが、自分も進化し続けたいと思う。

少し話は、それるが私は、人が今感じている”感覚や感情、感性”やその人らしい言動は他者が否定してもしょうがない”その人にとっての大切なもの”だと思う。

この”その人の感性や生き様”は技術や小手先の何かを遥かに超えて人としての感動を生み出すと考えている。

プロのアイドル、プロのダンサーなど、振り付けを踊れるのは大前提だ。

その上での表現である。今回のように、自分の身近な周りに抱く事柄をダンスに乗せて語るのだ。

そこまでいくと振り付けも間違えても、そんなことはどうでもいいレベルで感動ということの大切さが自分の中でもある。振り付けは、その感情や感覚とズレてない振り付けであればOKなのかもしれないというほどである。(実際は、振り付けも表現者と同様いろいろな技術や何かを使って大切だ。)

さて、その感情という意味で私も最近本番で踊ったことの気づきもある。

それは、生き方のプロの前で踊るということだ。

最近、地元佐渡の舞台に向けて、考えている。”自分がなぜ踊りの道に進んだのかを友人や親、知人に伝えていない”と。この言語化は、ある程度は意識的に話せると思う。

しかし、ある問いにぶち当たった。

なぜ”自分が”踊るのか?である。

踊りの道に進むことと、自分が踊っている理由は、現状の自分の解では結び付かなかった。

その中で、自分が踊る本番に向き合うのである。

ここでいう本番とは、演出家や脚本家がいるような本番ではなく、自分が自ら内容を考え表現する本である。

世の中の人は、一生懸命生きている。

今回の場では、難病を持つ子のお母さんの本人との向き合い方の話だった。

そのような話を聞いた後に、私は、琵琶で数分、即興で踊る。

ここまでくると、感情を乗せて踊ることなんて当たり前におもう。

今この瞬間、この場で、目の前で、命を燃やす、一生懸命何かを思って真剣に必死に踊り、

それが伝わるように身体的なテクニックを使いたおす。

踊り終わった後にこう思った。

自分にとって、一生懸命になれることそのものが踊りであり、

そんなことを一生懸命プレゼントできる媒体がダンスなのかもしれないと。

そんな1日を過ごした日もあった。

自分らしさ(言動)=感性(感覚・感情)=生き様=その人の価値

そんなものをこれからもダンスを通してみていきたい。